アフリカ、私の場合とくにコンゴ民主共和国とそこの人びとに対する見方、感じ方は長い付き合いの間に大きく変わりました。

最初は、遠くの大陸の辺境の地への憧れに駆られて、熱帯森林の奥深くに暮らすいわゆる「ピグミー」を訪れたのでした。そこで彼らの歌と踊りに魅せられ、また森の不思議な魑魅魍魎の物語に畏れおののき、その死生観に触れることができたことは私の一生の宝物です。当時は日本との郵便のやりとりも片道数ヶ月もかかりました。もちろん携帯電話も衛星電話もなく、いったん森の中に入ってしまうと日本にいる人は私の生死さえわからないのでした。親不孝かもしれませんが、それは素晴らしく自由な時間でした。

アフリカ大地溝帯の中を走る。前方の山脈を越えて下りていくと熱帯雨林帯に入る

それから10年以上も経って1998年8月初旬、私は妻と幼い二人の息子を伴って、あの森を訪れていました。その日、隣国の軍隊がコンゴ民主共和国に侵攻し、のちに「第一次アフリカ大戦」と呼ばれる戦争が始まりました。私たちは森の奥深くに避難し戦いが通り過ぎるのを待つことにしました。しかしこの戦争はこののち5年以上も続くことになります。その間に戦争による直接間接の影響で数百万人の命が失われたとも言われています。あの時、現地の多くの人びととアメリカ人パイロットの好意がなかったら、私たちは国内避難民としてどんな運命を辿ったことでしょうか。私たちを助けてくれたコンゴの人びとは、その後数年にわたり戦争の惨禍から右往左往して逃げ惑うことになったのでした。

第一次アフリカ大戦」からの避難、運良く家族とともにセスナ機で、助けてくれたコンゴの人びととお別れの撮影

私はその後、人類学的な関心をもちつつも、アフリカ、特に中部アフリカの現代史を勉強するようになりました。独立後のアフリカ諸国はどのようにしてまとまりのある国を作ろうとしていたのでしょうか。内戦や戦争といった暴力は、国家形成にどんな影響を与えるのでしょうか。もつれにもつれた対立と紛争の連鎖に終わりはあるのでしょうか。

すぐに答えの出るはずもない問いを問い続けている間に、国際社会からの圧力もあって戦争は終わり、小規模な紛争が散発する小康状態が続くようになりました。平穏ではないが、戦争でもない、といった状態です。

そのうちコンゴ民主共和国から日本にやってくる留学生が増えてきました。戦争前の留学生は、医学部や法学部、あるいは経済学部といった国づくりに必要な知識を得るために来日していました。来日する人数も少なくて、日本にいるコンゴ人は全員お互いに知り合いである、といった状況でした。ところが戦争が終わってからは、日本の文化、特にアニメやアートを学ぼうとする留学生がやってくるようになったのでした。留学生でなくとも、日本駐在のコンゴ政府関係者のなかには、「日本のアニメに憧れて日本駐在を希望した」と言う人まで出てきました。

私は新しい時代がやってきたことを感じました。ながらく紛争と飢餓に苦しめられる不幸な人間の多い大陸として、そうでなければ野生動物の楽園として、アフリカ大陸はイメージされてきたように思います。事実コンゴ民主共和国は独立時の「コンゴ動乱」から「第一次アフリカ大戦」まで紛争に苦しんできました。紛争に苦しむ人びとの一方、絶滅に瀕するゴリラのことが心配されたりしてきました。しかしついに自らの創造性を世界に問おうという若者たちが、日本にまでやってきてくれるようになったのでした。

 私は新しくできる国際文化学部のグローバルスタディーズ学科に所属することになりました。この学科にはアフリカ・アジア文化専攻という、おそらく日本で初めてアフリカの文化、特に現代文化に焦点をあてるコースがあります。すでに述べたように、アフリカの若者は政治的社会的な運動だけでなく、文化の大きな波を作り出し世界に影響を与えようとしています。京都精華大学は短期大学として発足しましたが、当初から芸術と文化を教育の中心としてきました。その大学にこのようなコースが誕生することは、アフリカ・アジアの文化との出会いとコラボを促進することでしょう。

 日本の若者とアフリカとアジアの若者がお互いに敬意を持ちつつ、それぞれの可能性を存分に発揮して21世紀の世界史を作り上げて行くような、そんな学びの場を用意できれば・・・。そういう夢を持っています。